湯野浜ヒューマノームラボ 第4回:眠らないキリンと睡眠不足の私たち ー スリープテックで見えてくる人間のかたち

ヒューマノーム研究所と生体データ計測・解析を専門とするベンチャー企業5社による共同研究プロジェクト「湯野浜ヒューマノームラボ」の連載企画。計測を終えたプロジェクトはデータ解析のフェーズへと移っていく。今回から5回にわたって、プロジェクトの旗振り役としてベンチャー集結を呼びかけたヒューマノーム研究所の井上浄を聞き手に、スペシャリストたちの見つめる世界を共有しながら、ヒューマノーム研究によって拓かれるその先の可能性について探っていく。

初回は、睡眠データの計測と解析を担当した株式会社ニューロスペースの取締役CTO・佐藤牧人さんに同社が展開するスリープテック事業や、未だ多くの謎に包まれている「睡眠」について話を聞いた。

眠りの悩みを技術で解決

人間の3大欲求のひとつといわれる「睡眠」。しかし変化の激しい現代において、寝つきや目覚めの悪さ、日中の眠気など、自身の睡眠への不満を多くの人が抱えている。米国のシンクタンク・ランド研究所が睡眠課題による日本の経済損失額は「年間15兆円」と発表しているように、睡眠不足や睡眠の質の低下は、個々人の健康はもとより経済活動や生産性に関わる社会課題ともいえる。

そして今、企業の働き方改革や健康経営が推進される中、テクノロジーによって睡眠を計測・分析などして課題解決を図る「スリープテック」が注目を集めている。ニューロスペースでは、一人ひとりの「眠り」をデザインすることでビジネスパーソンのパフォーマンス向上を図るスリープテックを活用した事業を展開している。

佐藤
ニューロスペースは、現在のようにスリープテックが注目される以前の2013年12月、代表取締役CEOを務める小林孝徳が一人で立ち上げた会社です。彼自身が睡眠で困っていたという原体験があり、それをどうにかしたいと思って仮眠スペースの設置など睡眠に関する事業をずっと一人でやっていたんですね。私自身も睡眠で社会を変えたいと思っていましたし、睡眠に強いこだわりを持っていた小林に出会って一緒にやろうと決めました。

井上
スリープテックによって一人ひとりの「眠り」をデザインするということですが、睡眠の課題解決に対してどのようなアプローチをしていくのですか。

佐藤
コアとなる事業はSkillとTechnologyの2つあって、ひとつめの大事な柱が「睡眠改善プログラム」です。これは、良い睡眠をとるための知識を蓄えるという意味でのスキルアップを目的に行っています。企業に対して100名前後の規模で事前に睡眠に関するアンケートをとって、どういった悩みを抱えているかリサーチした上で、それをもとにセミナーを行うプログラムです。たとえば、工場勤務で3交代をしている企業と大手町の大企業では、話す内容が変わってきます。どういった悩みを抱え、どういう睡眠の傾向の人が多いかということなどをデータ上で示しながら、それぞれの課題に応じた解決方法を全体研修というかたちで伝えます。

もうひとつのコアがTechnologyで、まず大事なのが睡眠を可視化することです。人間は寝ている時は無意識なので、どういった眠りだったかというのは、実際に測ってみないとわからない部分がとても多いです。睡眠障害の一種である不眠症で苦しんでいる方も、測ってみると不眠症ではなく、自分でそう思っていただけということがあります。主観的な評価と客観的な評価に少し乖離があることがわかっています。なので、睡眠を把握する技術や、そこから得られたデータのどこに着目してユーザーに伝えるかという技術を今、着々と作っているところです。最終的には、これら2つのコアを融合させたいと考えています。

佐藤 牧人 Makito Sato

株式会社ニューロスペース 取締役CTO

米国テキサス大学サウスウェスタン医学センター大学院統合生物学博士課程修了(Ph.D.取得)。博士課程〜ポスドクでは、マウス脳波・筋電図用電極埋込手術の最適化から睡眠自動判定ソフトウェア開発まで、また1万匹のマウス睡眠データベースの構築から次世代ゲノムシークエンスまでの技術プラットフォームすべてを網羅した大規模マウス睡眠測定/自動解析システムの新規開発に従事。米国テキサス大学サウスウェスタン医学センター博士研究員、筑波大学国際統合睡眠医科学研究機構研究員などを経て、2017年からニューロスペースに参画。理想的な睡眠時間は8時間。

井上
SkillとTechnologyという2つのコア、双方からアプローチする必要性はどのようなところに感じていますか。

佐藤
デジタルの領域では、腕時計型のセンサーやスマートフォンなど自分の睡眠を可視化できるアプリケーションは出てきています。けれど、不眠症を誤認するといったようなことからも、睡眠は主観的な影響が強いといえます。デジタルで計測して良い・悪いの評価が出た時、睡眠の質が良くなる人もいれば、逆に悪くなる人もいて、ケアが大切です。

我々としての信念は「リアルな接点」にあって、セミナーをはじめとするフェイス・トゥー・フェイスで話すといったリアルな接点とデジタル技術による可視化を、ちゃんと融合させたいと思っています。最終的に良い睡眠をとるためには、企業全体としての取り組みを変えなくてはならないし、もっと言うと、社会全体が睡眠に対してフォーカスをして、その仕組み自体を変えていくということをしなければ、睡眠の課題解決は図られないと思っています。

井上
現状、個人の努力だけでは解決できない部分があって、デジタルで可視化して画一的に評価するだけでは、その人自身の睡眠の改善には届かないのですね。

佐藤
「あなたは睡眠が7時間必要なのに5時間しかとれていません」というデータを出すことは容易です。けれどよくある事例として、会社の仕事が夜9時に終わって、通勤に2時間かかる。そして翌朝9時に出社しようとすると、5時間しか睡眠がとれないんですね。それに対して「長く寝てください」と言っても、そもそも無理な話です。

そこをちゃんとリアルな接点で、5時間しかとれないのなら、睡眠の質を上げるにはどうしたらいいか伝えるなど、適切なアプローチをまずは提示するということがすごく大事だと思っていて、2つのコアを融合させることでそれを実現させたいと思っています。

未だ解明されていない「睡眠」の世界

井上
眠りというのが、毎日のことなのにわかっていないことも多くて、なぜ眠るのかということすらまだわかっていないのは、本当に一番身近な謎です。たしかに「眠いから」なんだけど、「なんで眠いんだっけ?」と。

佐藤
睡眠は、3大欲求のひとつにも関わらず、その根底が何もわかっていないという事実があります。「食べる」ことのようにエネルギーのインプットや生きていくためといったことなら説明がしやすいんですが、寝て意識を失うってことは、外的なセンサーが遮断されるので捕食される可能性が高くなるわけじゃないですか。だから、生存競争的にはデメリットが多い。でも、それを上回るメリットが何かあって寝ているはずなんです。どういうメカニズムで眠気が現れるのかといったことも、全然わかっていません。

井上
私たち人間でいうと必要な睡眠時間は7〜8時間ぐらいと言われていますが、たとえば、突拍子もなく外れ位置にいる生き物っていますか。

佐藤
キリンは眠らないですよね。いつ何が来ても動けるように立ったまま。足を折りたたんで眠るのはとても短くて、20分くらいという話です。

井上
それは、寝ていると天敵に食べられてしまうからということですか。

佐藤
生存競争的に優位だということはあると思います。基本的に草食動物は睡眠時間が短いです。メリットとデメリット両方ともあって、それらのバランスでそうなっているんじゃないでしょうか。

井上
仮に寝ないことによって寿命が短くなるとしても、寝ている個体の方がよっぽど早く死んでいるということですよね。長時間眠って長生きしたものがほぼいないという状況で、淘汰されてきたんじゃないかっていう。

佐藤
逆にコアラはずっと寝っぱなしです。ユーカリの葉を解毒するために、最長22時間ぐらい寝るそうです。

井上
食べて寝ているだけなんて、この世に生まれてきた意味はどれほどあるんですかね。でも、動物の睡眠時間と腸内細菌とは関係がありそうですね。草を食べているのと肉を食べているのとでは絶対に違うだろうし、結果論としてそういう腸内環境になったのか、どちらが先かはわからないけれど。

佐藤
あるんじゃないですか。起きているわずかな時間でパパッと食べてエネルギーが代謝できるのであれば、腸内細菌が大事ですよね。

井上
コアラは安心、安全だからそれだけ寝ていても平気ということですよね。そうすると、もしかしたらデフォルトは「寝る」方なのかなって思ってしまいます。

佐藤
そうです。逆かもしれないというのはありますよね。私たちは日中起きているから、「起きている」方を中心に物事を考えがちなんですけど、「睡眠」を軸に考えましょうと、よく言っています。

井上
なるほど。こういう動物からのアプローチっていうのも当然あるんだろうけど、やっぱり人間でわかっていないことが多すぎるので、今回のプロジェクトのように、テクノロジーやサイエンスで睡眠に切り口を入れていくことができるのは、非常に楽しみですね。

佐藤
基礎研究はとても大事ですが、次の段階として人間のデータを蓄積するということも重要な気がしています。研究ではマウスを使いますが、残念ながら「あなた眠いですか?」という質問には答えてくれません。眠気に関わる物質がわかっていないので、たとえば血液を採っていって、ある物質の数値が上がれば、「今、眠くなりましたね」と言えるのですが、それができないので、今の状況では、人間の主観に頼らざるを得ない。PSGと呼ばれる脳波を測ったり、センサーを身体中に取り付けて、病院や睡眠クリニックなどで一晩寝てもらって、その人の睡眠を評価するという方法が今は主流で、確立されています。けれどそれはすごく大変で、自宅ではできないですし、データ不足なので研究するにもとてもハードルが高い現状はあります。

相互作用のデータから新たな価値を創出する

井上
睡眠を取り巻く環境が全然わかっていない現状にあって、ヒューマノーム研究のような構想をベンチャーが集まって一緒にやろうと言った時に、「いいね」となったのはどういう感覚だったんですか。

佐藤
我々は、睡眠と日中の活動や環境は表裏一体だと思っています。睡眠の良し悪しが日中の活動に影響しますし、日中の活動に何か変化があれば睡眠に影響が出ます。どちらも重要で、睡眠だけに着目していたら何もわからなくて、腸内環境や血液内の何かの変化だったり、血圧や食事も重要だという認識でした。そのあたりを網羅的にちゃんと調べることはとても重要だというのは、ずっと考えていました。

井上
自分たちだけでは絶対できないことで、それぞれのスペシャリスト達が出してくるデータのもと、一緒に解析できれば、眠りというものがいろいろな角度からあぶり出せるんじゃないかということですね。おそらくみんなそう思って参加してもらっていて、だから、こういうチームができたのはむしろ必然ではないかと思います。

佐藤
たとえばですが、核となるものがあって、そこに行き着くためにみんなで協力するというイメージではないんですよね。睡眠がその核になるとは思っていなくて、睡眠も他に影響を与えるだろうし影響も受ける、インタラクション=相互作用という方がイメージに近いです。

井上
みんなであぶり出すイメージだよね。そこに現れてくる相互作用とかネットワークの時系列的集合体が、実は人間に一番近いのではないかと。それがようやくできるかもしれない、となったのがヒューマノーム研究の一番大きいところですね。

佐藤
行き着く核がまだわかっていないから、みんながちょっとずつ現象論を全部集めた上で、「あ、こういうパラメータが変わった時に、ここが変わった」と、そういう事例をどれだけ集められるかというところではないでしょうか。要するにネットワークのマップをどれだけ描けるか。それが正攻法というか、それしかないんじゃないかなっていう感覚です。

井上
自分たちの事業だけやっていても集まるデータは睡眠や腸内環境といったそれぞれのデータだけでしたが、相互作用が積み重ねられたデータを共有するプラットフォームがいよいよできるというところまで来ました。そのデータからはこれまでにない新たな価値が生まれるだろうし、それをみんなで見出して、ベンチャーが互いにコラボレーションして新たなビジネスを創出することができるか。ヒューマノーム研究の、もうひとつの挑戦でもあります。


次回は、食事と血圧の記録・解析を担当したウェルナス株式会社にスポットを当てる。同社が展開する食品機能を活用したヘルスケア事業をはじめ、食事というインプットが人間の健康のさまざまな側面にどのような影響を与えているのかについて、話を聞く。

<つづく>

文・写真:天野尚子

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