湯野浜ヒューマノームラボ 第1回:健康が保証された世界、その向こう側を見たい
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「人生100年」と聞いた時、あなたは何を思うだろうか。
どんな未来を思い描いたとしても、「ならば健康でありたい」と願うのではないだろうか。
では、その健康が保証されたとしたら?
100年という時間を、あなたはどう生きるだろうか。
自分の健康を計算しデザインできる世界、そんな「ポストヘルス時代」における人間のあり方を考えようと立ち上げられたヒューマノーム研究所と、多様な専門分野にわたるヘルスケアデータの研究を進めるベンチャー企業との共同研究プロジェクト「湯野浜ヒューマノームラボ」が、このほど始まった。
けれど、この研究が拓く未来のことは、まだ誰も知らない。
今、明らかなことは「人間とは何か」という問いへの純粋な好奇心だけだ。
その問いにスペシャリスト達が挑もうとしている。世界中の人を巻き込みながら。
この連載では、プロジェクトに関わる研究者、企業、そして研究の礎となるデータを提供する街の人、一人ひとりが持つ思いに触れながら、それぞれのまなざしの先にあるものを見つめ、「ヒューマノーム研究」が照らそうとしている、少し先の未来の輪郭を描き出していきたい。
世界初の試みが、ここから始まる
2018年12月6日、山形県鶴岡市にある海沿いの温泉街、湯野浜。
空には雲がかかり、荒々しい波がしぶきをあげる日本海からは、強い風が吹き込んでくる。
ここ湯野浜ではありふれた冬の日、老舗旅館「亀や」の一室は、不思議な熱気と高揚感に包まれていた。
この日ここに集まったのは、今回のプロジェクトのメンバーであるベンチャーの研究者や企業のスタッフ、そして地元・湯野浜の人たち。これから行われる被験者に向けた説明会の準備を終えたところだ。
「世界初の試みが、ここから始まります」
ヒューマノーム研究所の創設者である井上浄は、集まったメンバーを前に、少し力を込めてそう口にした。
井上 浄 Joe Inoue
株式会社ヒューマノーム研究所 取締役
東京薬科大学大学院薬学研究科博士課程修了、博士(薬学)、薬剤師。
株式会社リバネス創業メンバー、同代表取締役副社長CTO。博士課程を修了後、北里大学理学部助教および講師、京都大学大学院医学研究科助教を経て、2015年より慶應義塾大学先端生命科学研究所特任准教授、2018年より熊本大学薬学部先端薬学教授、慶應義塾大学薬学部客員教授に就任・兼務。研究開発を行いながら、大学・研究機関との共同研究事業の立ち上げや研究所設立の支援等に携わる研究者。
いったい何が始まろうとしているのか。そして、ここから始まり向かっていくその先の未来に何を思い描いているのか。そもそもこのプロジェクトが生まれた地点、ヒューマノーム研究所立ち上げの着想について井上はこう話す。
「これまで研究者と一緒に会社を作ったり、一緒に研究をスタートしていくなかで、腸内細菌や睡眠などのデータを取って、自分のことが分かるようになってきました。一つひとつの僕のデータはそれぞれの会社のサーバーに入り、レポートもまた一つひとつ返ってくる。その時、『あれ?これって全部僕だよね』と思って。せっかくみんな一緒にやっているのになぜそれぞれのところにしまっているんだろう、『僕』という切り口で横串が刺せたら、何かもっと面白いものになるんじゃないかっていうのが、ヒューマノーム研究所を立ち上げた時の、一番初めのコンセプトです。
それぞれベンチャーがとがった技術を持っていて、それを集合させて、みんなでデータベースを作ろうということは、まだ誰もやっていません。大手グローバルIT企業が子会社にしていくつか医療関係のことはやっているけれど、今回のプロジェクトでは日常のデータを取り扱います。これは世界で初の試みであって、ここからなにか仮説検証できればいいね、ということなんです」
「自分」に近い存在がデータとして出来上がる
このプロジェクトに名を連ねるのは、腸内細菌の遺伝子と代謝物質を統合解析し個々人に合わせた腸内デザインの研究開発を行う株式会社メタジェン、睡眠の課題解決を図るスリープテック事業を展開する株式会社ニューロスペース、遺伝子のはたらきをコントロールするエピゲノムの解析技術を持つ株式会社Rhelixa、食品機能を活用したヘルスケア事業を行う株式会社ウェルナス、遠隔医療サービスとそれに関わる医療機器の研究開発を行うAMI株式会社。これら5社のベンチャーがそれぞれ解析したデータをもとに、「横串を刺す」統合解析をヒューマノーム研究所が担っていく。
そして、被験者としてデータを提供するのが湯野浜で働くおよそ40~60代の男女25人である。12月から1月にかけて、途中休止期間をはさみながら、合計4週間にわたり毎日睡眠や食事、血圧などのデータを記録してもらう。これに加え、身体測定や血液検査、腸内環境を調べるための採便も実施する。
「自分のデータというのは一個一個どんどん積み上げていったら、それは、腸内環境で積み上げていけば、自分のお腹の歴史がずっと分かります。年を取ると腸内細菌叢が変わってくるという論文もあるんだけど、じゃあ自分はどうか、と。論文は分かった、その平均値というのは分かりましたと、『じゃあ僕は?』。その質問に答えられるサービスも事業も研究も、今はまだないんです。
今回の計測でそれぞれにたくさんデータが取れるので、これで『人全体』を統合解析していきます。そうしたとき相互のデータの関係、たとえば睡眠と腸内環境の関係ってまだ誰も知らない。睡眠不足の時に腸内細菌叢がどうなるか、逆に、腸内細菌叢がこういう人はどうも寝なくても平気らしいとか、そういうことはまだ全然分かっていないんです。
そういう横との関係性というのが全然分かっていないものを合わせていって、最後に、人間というのが何かが分かるんじゃないか。積み上げれば積み上げるほど、『自分』に近い存在がデータとして出来上がっていく。そうすると、今度は予測ができて、自分がどうなっていくのかが見えてくるのではないか。じゃあ、この『自分』にファストフードを1週間食べさせてみようとか、睡眠時間3時間ぐらいで生活させてみようとか、そういうシミュレーションができる。そして、そのシミュレーションを見て、自分で仮説検証しながら、自分が良くなる方法というのを、自分で調べられる時代が来るはずなんです」
「僕らは健康が保証された世界の、向こう側を見たいんです」
プロテオーム、メタボローム、ゲノム・・・それぞれの分野ごとのデータがバラバラに収集・解析されている現在、こうしたデータを統合解析し、人間を科学するためのデータベースを作るプラットフォームとして、ヒューマノーム研究所という場がつくられた。そこから生み出されるデータがかたちづくるのは、平均化された「誰か」ではなく「他の誰でもない自分」。井上が思い描いているのは、そんな「自分」そのもののデータを手にすることができる世界だ。
「人生100年と言われる時代、病気にならないというのが重要な点です。でも、それは誰もやってくれない。自分の健康は自分でつくっていかなくちゃならない。たとえば寝たきりの原因の多くは骨折といわれています。ということは、骨の情報や予防法を自分で知らないといけない。自分のアルゴリズムで、自分の予測ができるようになるためには、今、自分自身を知らない限りは始まらない。僕の、私のデータを積み重ねていく。そういうデータを集めていくという試みを今やっています。
『人、ひとり』を対象にして解析して、日々生活している『自分』として研究する。そういうデータが集まってきた時、『世界は健康になるんだろう』というのが僕の予測です。僕らは健康が保証された世界の、向こう側を見たいんです。健康が保証されたら、人間はどうなっていくのか。その時代に何を考えて、何を目的にして、何を幸せと考えて生きていくのか、このことをデータをベースにして、考えられるんじゃないか。
そういう世界をつくりたいんです。その第一歩目がようやく動いたんです。統合解析する研究者もそろった。だから、あとはやるだけなんですよ。これを今、世界で初めに湯野浜の25人が頑張ってるんです」
井上が研究所の名前に冠した「ヒューマノーム(Humanome)」とは、「human」 と「ome」、2つの言葉をつなげた造語だ。「ome」はギリシャ語で「総体」を表す接尾語で、たとえばゲノム(genome)は遺伝子「gene」の総体「ome」ということになる。つまり、ヒトを意味する「human」と合わせることで「人全体」を表している。
健康が約束され誰もが幸せに暮らせる未来を描くためには、「人間とは何か」を理解しなければならないという思いが、色濃く反映された言葉といえる。好奇心のままに語る井上が見つめる先には、あくまでも「自分」にフォーカスしていこうとする未来がある。それは、「人間って何だろう?」「あなたはどう生きる?」という問いを世界中のすべての人に投げかけ、一緒に考えようとしている姿勢の表れのようにも思えた。
<つづく>
文・写真:天野尚子
特集『湯野浜ヒューマノームラボ』
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